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かげむし堂

音楽と、音楽家と、音楽をめぐる物語について。

ヴェーゲラーへの追伸(短編小説)

音楽をめぐる創作 音楽をめぐる短編小説 音楽をめぐる物語 フェルディナント・リース

1837年、フランクフルト&パリ&アーヘン。音楽家フェルディナント・リースのもとに、死んだはずの師・ベートーヴェンが天使となって訪ねてきた…!?

登場人物:フェルディナント・リース/ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(天使?)/リース家の人々/カール・チェルニー/フランツ・ゲルハルト・ヴェーゲラー/ほか

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追伸:

 親愛なるヴェーゲラー。いつにもまして長ったらしい手紙を、最後まで読んでくれて本当にありがとう。何しろ、ベートーヴェンに関する思い出話ときたら、即興演奏さながらに次から次へと降ってわいてくるので、ついつい、あれこれと書き足してしまった。あんなろくでもない内容だけど、ほんの少しは、あなたの役に立てただろうか。ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンに関する記録を書き残すというこの仕事に、僕を誘ってくれたことを、心から感謝している。だからどうか、この、手紙の本文よりさらに長ったらしい追伸を読んで、悔やんだり、自分を責めたりしないでほしい。いまとなっては、ただ、それだけが僕の願いだ。

 あなたは、ラインラントのもっとも優秀な医師であり、科学の人だ。ベートーヴェンの耳の、うねりを経て闇に向かう、長く、そして暗い穴を、無だの恐怖だの運命だのではなく、ただの病んだ肉の裂け目として、冷静な目で見つめることができる人だ。だからこそ、詩に指をおどらされ、思想に歌をうたわされ、感情に喉をくるわされるのを生業とする、僕やベートーヴェンのような音楽家は、あなたを欠くべからざる友とし、これまで、さまざまな秘密の話を打ち明けてきた。

 これから書き綴るのも、いわば、僕が事あるごとにさんざんあなたにぶつけてきた、それらの話のひとつのようなものだ。もちろん、単なるたとえ話と思ってもらっても、一向に構わない。創作と思ってもらっても、一向に構わない。ただ、ちょっとだけ、僕のまだ赤い舌にだまされてやるつもりで、想像をめぐらせてみてほしい。

 一八三七年十二月二十八日。フランクフルト・アム・マイン
 いま、僕は、この追伸を、書斎の机の上で書き綴っている。
 そして。
 僕のすぐ背後には、…………なんと、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンがいる。


       ***


 ──ヴェーゲラー、俺を許してくれ。

 ついさっきまで、そんなことをつぶやきながら、背中を丸めてべそべそと泣いていた。いまはというと、そんなことはすっかり忘れてしまったみたいに、長椅子に寝そべり、夢中になって新作オラトリオのトロンボーン・パートを書き綴っている。そう、まるで、僕が彼の門下にいた遠い昔、朝五時にあくびをしながら彼の家を訪ねていったら、ベッドの中で「オリーブ山のキリスト」の楽譜を書いていたときのように。違うのは、いまが夜中の二時だということと、ここが他ならぬ僕の家の書斎だということだ。せっかくさっき片付けたばかりなのに、紙くずやら、インクの痕やらで、平然と他人の部屋を汚すのはいい加減にしてほしい。ただでさえここ最近の僕は、青春の思い出にかまけて生活がだらしなくなっていると、年頃の娘たちからからかわれている始末なのに。

 ──まいったね、フェルディナント。私はたしかにジークブルクに精神病院を創設したとも。だが、それは君の名前をカルテに書くためじゃないよ。

 あなたがそう言って僕を優しくたしなめる声が、いまにも聞こえてきそうだ。だけど、願わくば、僕がラインガウのワインでしこたま酔っ払っているとでも思って(それは事実なんだけど)、もう少しだけ、この戯れ言につきあってやってほしい。──ほほう、そうか、なるほど。我らがベートーヴェンが、天国から、愛弟子である君をひょっこり訪ねてきてくれたというわけだな!そりゃ、うれしかろうねえ。で、それは、今日がはじめてなのかい?
 慈悲に満ちた棒読みのセリフをありがとう、ヴェーゲラー。だけど、答えはノー、だ。ずっと黙っていて悪かった。実をいうと、彼が僕の目の前にはじめて現れたのは、さかのぼること九ヶ月あまり前。そう、まだパリに滞在していた時だ。同地とロンドンとを弾丸往復する、なかなかハードな仕事を終えて、そろそろ凱旋門ともおさらばしようという直前にインフルエンザに罹って、みじめな足止めを食った話は、確かしたことがあったと思う。ひどい高熱を出した僕は、ベッドの上でうんうんうなされていた。一日も早く、アーヘンに行かなきゃならないのに。オーケストラはどうなる。合唱はどうなる。ソリストはどうなる。そんな焦りにさいなまされながら。妻からの報を受けて、心配したマイヤベーアが、えらくめかしこんだユダヤ人の医者を次から次へと呼んでくれたけど、ちっとも快方に向かう気配がない。窓の外の粉雪を恨めしげに眺めていたのも数日で、そのうち昼と夜もわからなくなり、ただひたすら頭を枕の中に突っ込んで、オラトリオのメロディを、煮えた脳味噌の中でぐるぐるかき回していた。そんな時だよ。どこからともなく、ふっと、男の声が響いたんだ。もう十年……いや、違う。僕にとっては、かれこれ三十年近く、耳にしていない声だ。

 ──おまえ、シンドラーに指揮を任せるのはそんなに嫌か?
 僕は飛び起きた。そして息を呑んだ。
 ベートーヴェンが、ベッドの縁に腰掛けて、こちらをじっと睨みつけていた。


       ***


 もちろんその瞬間は、心臓が止まってしまいそうなくらいびっくりした。でも、なにぶん熱に浮かされて、わけがわからなくなっていた真っ最中だ。目をぱちくりさせて、それから穴のあくほど、なつかしすぎる彼の顔を見つめて、ただれた喉でようやく発した言葉がこれだった。

 ──先生、わざわざパリまでお越しで……?
 よく考えたら奇妙なことだけれど、目の前のベートーヴェンはまだずいぶん若かった。僕が彼に弟子入り志願した頃と同じくらい……せいぜい三十路といったところだろうか。目は生気を帯びて、頬も健康的な赤みを宿し、そして……耳はさほど問題なく聴こえているようだった。僕のその間抜けきわまりない、小鳥のように弱々しげな声をきいて、彼は、明らかに呆れた表情をした。

 ──おい、リース。俺がウィーンの墓の下から来たとでも思ってるのか?
 それでもなおぼんやりしていると、彼は僕の首元のあたりを、昔とまったく変わらない、実に手慣れた調子でぺしっとはたいて、──おまえ、俺が天国に行けなかったと思ってるらしいな?……と言うと、歯をむきだして笑った。それから、ちょいちょいと自分の背中を指差すので、何かと思ったら、天使の子供みたいな可愛らしい羽根をぱたぱたさせていた。なるほど、とても不似合いだ。

 ──それで、と、彼は言った。
 ──聞いてやらんわけにはいかなそうだな。おまえ、そんなに、アーヘンに行きたいか?
 ──あたりまえじゃないですか。

 ようやく少し回り始めた頭で、僕は答える。──ニーダーライン音楽祭が来月に控えているんですよ。憶えているでしょう。アーヘンといえば、先生の合唱付きの交響曲を振った、とても思い出深い場所なんです。今年はそこで、自作のオラトリオを演奏するんですよ。「イスラエルの王」……まあ、題材は大人の事情なので、深く突っ込まないでください。とにかく僕は、作曲者であると同時に、五百人弱のラインラントの演奏家を束ねる指揮者で、音楽祭の総合ディレクターなんです。悪いことに今年は、あなたもよくご存知の、あの盲腸野郎のアントン・フェリックス・シンドラーが合唱指揮に就いてしまった。彼は歌の指導者としては、必ずしも悪くないかもしれませんが、人間としていささか……ああそういえば、あいつがあなたの弟子だってのは本当なんですか?僕の勘だと…あいつは……シンドラーは……あいつは……………

 ──どうしようもないやつだな。

 ベートーヴェンはそうつぶやいた。シンドラーのことを言ったのかと思いきや、それはどうやら僕のことだったらしい。その証拠に、彼が僕をみるまなざしは、不思議なほど、憐れみと優しさを帯びていた。

──わかった。どうにかしてやろう。

 聞き間違いでなければ、そのとき、彼は明らかにそう言った。そうして彼は、おもむろに、こちらへ腕を伸ばしてきた。また首をはたかれるかと思いきや、彼の毛むくじゃらの分厚い手は、そのまま僕の額に押し当てられた。高熱にやられていたのに、その手からは、ほのかな温かさと、波打つような脈動が感じられた。──おかしいな。先生は死んでるはずなのに。……薄れゆく意識の中で、僕はぼんやりと考えていた。──ねえ、先生。もしかして、あなた、本当は生きてるんじゃないですか?……………


 はっと気がついたときには、僕は、枕に頭をのせて、窓からこぼれる朝陽に顔を照らされていた。──なんと、驚きましたな。……僕の額に手を当てているのは、ベートーヴェンではなく、ユダヤ人の医者だった。──たった一晩で、すっかり熱が下がってしまうとは。

 妻と、妻にそっくりなふたりの娘たちが、安堵したようにほほえんだ。窓の外をみると、軒下に水滴が落ちて、遅まきの雪解けがはじまっているのがわかった。ベートーヴェンの姿は、すでに、どこにも見あたらなかった。


       ***


 それからというもの、ベートーヴェンは、実にちょくちょくと、何のもったいぶりもなく、僕の前に姿を現すようになった。たいがいは深夜、家族が寝静まったあと、ひとりで書斎にいるときだったが、驚いたことに、アーヘンの音楽祭では成金よろしくどっかりとボックス席に座って、最後にはしわがれた声でブラヴォーを放ってくれたし、フランクフルトに戻る途中で、ライン川の最新の蒸気船に乗ったときは、いつの間にか隣にいて、故郷の初夏の風景を追いかけて無邪気に目を輝かせていた。

 どうやら、僕以外の人間には、彼の姿は見えないようだった。彼は背中におもちゃみたいな羽根こそくっつけていたけれど、あまりに生き生きと、血の通った人間そのもののように歩き、動きまわり、つばを飛ばして喋ったので、僕には彼が十年前に死んで、すでにこの世の存在でないということが、だんだん信じられなくなってきた。

 ただし、姿を現す際の、彼の歳の頃は実にさまざまだった。僕がウィーンで彼に師事していた頃の、いちばんよく見慣れた三十代の外見をしているときもあれば、もうこれは最晩年に近いのではないかという、老境の風情をたたえているときもあった。僕は、眉間にきざまれた皺の数よりも、耳の具合でもって、彼の年齢を類推することもあった。彼は、ラッパやひしゃくの形をしたおかしな補聴器をたずさえて現れることもあったし、それすらも役に立たず、ノートを鼻先に突き付けて、筆談を求めてくることもあった。それは、人生の早いうちに彼のもとを離れてしまった僕が、いまだかつて見たことのなかった姿であり、彼が抱えた運命の成れの果てを実感させられるはじめての機会だった。彼との筆談は、思った以上にうまくいかなかった。決して筆が遅いわけではない僕が、ひとつの返答を大急ぎで書き終えるより前に、彼はもう次のことを喋りだしていて、およそまともに会話がかみあったためしがなかった。正直に告白すると、こうした経験を通して、僕は、ほんの少しだけ、シンドラーに同情を覚えざるを得なくなった。彼は彼で、こういう姿のベートーヴェンしか知らないのだから。

 親愛なるヴェーゲラー。もうひとつ告白しなければならない。あなたとの共著書のために、僕が書き綴ったベートーヴェンの思い出話は、多分に、彼とのこの不可思議な再会のプロセスのなかでよみがえってきたものだった。もっとも、僕は当初、彼に対してそのことは一切秘密にしていた。面倒なことになるのは知れていたからだ。ところがある日、家族と夕食を終えて書斎に戻ると、彼はすでに、机の上に置いていた僕の書きかけの草稿を読み終わって、不機嫌そうに机の前で腕を組んでいた。年老いた気むずかしげな顔つきの彼が、僕の方をぎろりと睨み上げるので、すわ怒られるぞと身を縮めたが、出てきた言葉はまったく意外なものだった。

 ──締め切りはいつだ。

 僕は目を泳がせてペンを探した。見当たらなかった。困っていると、彼は続けざまに言葉をたたみかけてきた。

 ──始めたものは仕方ない。さっさと書き終えてしまえ。いいな。

 信じられないと思うだろうけど、それからのベートーヴェンは、やけに執筆に協力的だった。彼は僕に、いろいろなヒントを出して記憶をよみがえらせてくれたし、ときには、僕が完全に忘れていた事実さえ教えてくれた。小芝居よろしく、当時の自分の挙動を再現してくれることさえあった。アウガルテンでのデビュー演奏会をめぐる思い出は、僕たちふたりにとって格好のネタで、彼は、僕のカデンツァを聴いてどのように仰天し、そして最後にはブラヴォーと叫ぶに至ったかを、何度も何度も、冗談めかして演じてくれた。

 そうした彼を眺めつつ、僕は、当時の彼がいかなる覚悟をもって、僕をあの舞台に導いてくれたのか、あらためて考えざるを得なくなった。あのときの彼の若さが、いまの僕にとっては、痛ましくも、立派にも思えた。僕は、自分の音楽人生において、あのような形で、若い誰かに何かを受け渡したことがあっただろうか。彼から受け取ったものを、自分の肉や血にすることこそが使命だと一途に思ってきたけれど、ひょっとして僕のある種の限界は、それを誰かに渡すいさぎよさを持てなかったことにあるのではないだろうか。……しかしその一方、僕は、こんな風にも思わざるを得なかった。ベートーヴェンを手放した人生は、果たして僕の人生といえるだろうか、と。


       ***


 たしか、そんなことを考えていた矢先だったと思う。僕には、あの日の出来事が、彼の意図によるものだったのか、それとも神様のいたずらだったのか、未だによくわからない。彼がやって来たのは、珍しく真昼間だった。しかも、ご丁寧に、彼は扉をノックしてから書斎に入ってきた。──先生、どういう風の吹き回しです?……と言うつもりで振り返った僕は、はっとして息を呑んだ。

 まだ、十四、五歳くらいの少年が、そこに立っていた。

 それがベートーヴェンだとわかったのは、いまはもう無き、前世紀の宮廷の制服を着て、かつらをかぶり、おまけに父が愛用しているものと同じ型のヴァイオリン・ケースを抱えていたからだ。どうしたらいいか困惑したのは向こうも同じで、彼は、僕のことが誰だかも、自分がなぜこんなところへ来てしまったのかも、いまいちよくわかっていないようだった。こんな状況ははじめてだった。ひとまず椅子に座らせて、……大人になった彼自身からさんざん聞かされた、少年時代の哀れな空腹譚の数々を思い出し、ハムやらパンやら果物やらを食卓から失敬して持ってきてやると、一心不乱にむしゃむしゃ食べた。仏頂面で、何だかかわいかった。僕があんまりにこにこして見つめているからか、彼は気まずそうに身をよじった。僕は彼が持ってきたヴァイオリンを指さした。

 ──弾いてくれる?
 ──僕、あまりうまくないんです。
 ──大丈夫。僕もうまくないから。

 何度か押し問答したあと、彼はおずおずと立ち上がって、調弦をはじめた。演奏したのはモーツァルトのヴァイオリン・ソナタだ。なるほど、確かにうまくなかった。終わった後に、何と言って励ましてあげよう。そんなことを思いながら、僕ははたと気がついた。

 ……僕は、この少年のことを憶えている。

 そうだ。母の腕に抱かれた僕は、この少年が奏でる、ヴァイオリンのうなるような恐ろしい音をきいて大泣きしたのだ。そんな赤ん坊の頃の記憶があるわけがないのに、たしかに、僕は彼のことをよく知っていた。十八世紀のありとあらゆる不幸を宿したような頬と、未来の太陽を映したぎらぎら輝く目をあわせもつアンバランスな少年。そして、そんな彼に、──大丈夫、君にはまたとない才能があるのだから、……と言い聞かせながら、ヴァイオリンを熱心に教えていた僕の父。その光景を僕は知っていて、その世界の中に僕もまた存在していた。そして、それこそが、僕の人生のはじまりの瞬間だったのだ。

 お世辞にも良い出来栄えとはいえない演奏がおわるや否や、僕はいてもたってもいられなくて、少年を背後から抱きしめた。──ありがとう。大好きだ。どうか忘れずに覚えていてくれ。僕も僕の父さんも、君のことが大好きだよ。……少年はびっくりしたのか、ぱっと飛び退くと、あたふたと頭をさげた。そしてヴァイオリンを抱えると、踵を返して、足早に扉から出ていってしまった。

 追いかけようとしたところに、入れ替わりに妻が部屋の中に入ってきた。昼下がりの、ひとすじのそよ風の行方を追うみたいに、一瞬だけ振り返ったあと、僕の顔をじっと見つめて、──ねえ、あなた、……と英語で言った。妻が母国のことばを使うときは、たいがい心のいちばん底にある想いを口にしたいときだということを僕は知っていた。さっきまでここいた少年の面影を頭にちらつかせながら、僕はいささか罪深い気持ちで、彼女の、少女の日のままのように美しい唇がふたたび動くのを待った。だが、彼女はそれ以上、何も言わなかった。ただ僕の首筋に短い接吻をして、一枚の封書を、こわれもののように大事そうに、僕の手のひらの上にそっと置いた。そうしてしばらくそのまま触れた手を離そうとしなかった。


       ***


 その翌日の夜、ラッパ型の補聴器をたずさえたベートーヴェンが姿を現した。少年の彼に会ったことは、何となく、口に出すのがはばかられた。その代わりに、妻から受け取った手紙を見せた。彼は、眼鏡を忘れたとかぶつぶつ言いながら、しばらく鼻をめいっぱいに近づけてそれを読んでいた。読み終わると、何だか狐につままれたような顔をしていたので、僕は手紙の表題を指差した。「チェチーリア協会ディレクター正式契約通知」……それから、補聴器を彼の耳に突っ込むと、力の限り叫んだ。──チェチーリア協会ってのは、フランクフルトの新興の大規模な合唱団なんですよー!若いメンデルスゾーンもご執心の団体でー!カッセルの宮廷楽長とは比べようがないかもしれませんが、パトロンもわんさかいて、予算も潤沢だし、好きなようにプログラムも組めて、オラトリオの研究も続けられるし、これ以上ないくらい美味しい地位なんですよー!!前任が亡くなって、運良く転がり込んできたんですー!!
 亡くなった、という言葉に、彼はびくりと反応してこちらを見た。そして苛立たしげに頭をぐしゃぐしゃ掻いた。

 ──それで?その任期は、いつ終わるんだ?
 ──終わり?そんなの知りませんよ。前任はかれこれ九年も務めていたわけですし、場合によってはそれ以上……

 そう言うと、彼はむっつりとした顔で黙り込んだ。それから、およそ彼らしくもない、消え入りそうな小さな声で言った。

 ──おまえ、もうちょっと、自分のことをわかってるかと思ってたよ。

 僕は思わず補聴器を取り落とした。彼の言うことの意味がわからなくて、怒りの感情が沸いた。──この仕事が僕に不似合いだとでも?先生はご存じないと思いますけど、僕は一応この分野で十年選手なんですよ!僕はもう、ただのシャルラタンなピアノ屋のフェルディナント・リースじゃないんです。ニーダーライン音楽祭でいくつものオラトリオを演奏して、あなたの合唱付きの交響曲の再演も成功させて、それに……それに、あなたと違って、オペラだってちゃんと一発当てたんですから!
 そこまで勢いで言ってしまって、内心しまったと思ったが、彼は怒らなかった。もっとも、聞こえていなかっただけかもしれない。ベートーヴェンは、ただただ、きまり悪そうにこちらを見ていた。それから手紙を乱暴に僕の手に返し、床に転がった補聴器を拾い上げると、背を向けた。

 そういえば、彼はそれまで一度も、この世に現れる瞬間も、いなくなる瞬間も、僕に見せたことがなかった。たいがい、気がついたときには、千年前からそこにあった石像みたいに部屋のどこかに座っていて、ふっと目を離したすきに、あとかたもなく姿を消してしまうのだった。だがこのときは、燭台の揺らめく灯りに照らされて、徐々に薄れていく彼の背をはっきりと見た。僕は駆け寄った。もう彼に会えないのではないかという気がした。

 ──先生。行かないで。

 彼は顔をほんの少しこちらに向けた。

 ──また来てくれますよね?
 その言葉は彼の耳に届いたのだろうか。ため息と共に、こんな言葉が洩れた。

 ──もう来たくないよ、俺は。

 愕然とした。彼の輪郭はぶれて、まるで煙のように一瞬で消えてしまった。手紙が、風をあおって、手の中でしばらくびりびりと震えていた。──ベートーヴェン先生、とつぶやいたが、それは空っぽの部屋にむなしく響くだけだった。


       ***


 ベートーヴェンは、それから数ヶ月あまり、僕のところに姿を見せなかった。僕はなんとも悲しい気持ちを抱えて、こんなときに彼の思い出を書かねばならない不運に身をつまされながら、それでもなんとか原稿を仕上げ、チェチーリア協会の新しい仕事の準備に精を出す日々を送った。

 二度と会えない覚悟はできていた。
 しかし、結局のところ、彼は再び僕のもとへやってきた。
 そして、いま現在は、部屋の長椅子に寝そべって、新作オラトリオの作曲に夢中になっている。

 親愛なるヴェーゲラー。これから僕は、この長い追伸の核心にあたる話を、あなたに聞かせなければならない。つまり、昨日から今日にかけて、僕の身に起きたことを。


 年の瀬にふさわしい、凍えるように寒い一日だった。午後にかけて、僕はあなたから先日受け取った、ベートーヴェンの思い出話に関する補足の質問に応えるべく、その手紙の下書きを書いて過ごした。夜は、妻と三人の子どもたちとで、夕食を囲んだ。降誕祭の休暇を終えた息子のフェルディナントは、年明けを待たずに、勉強先のマールブルクに戻る予定になっていた。母と姉ふたりに、仔犬のようにさんざん甘やかされながら、十四歳の少年は、ときおり何か物言いたげな、心細そうな目つきでこちらを見た。だから、その後、僕は彼を自分の書斎に招いた。いろいろな話をした。ラテン語の文法とか、女の子とか、プロイセンの国境線とか、ハインリヒ・ハイネとか、蒸気機関とか。そのうち、僕は、部屋の長椅子にベートーヴェンが座っていることに気がついた。家族がいるにもかかわらず、彼がここに姿を現すのははじめてだった。二十八年前、僕が彼と最後に別れた頃くらいとおぼしきベートーヴェンだった。──よかった。また来てくれましたね。でも、こんなときに出てこなくてもいいのに。……と、僕は身勝手なことを思った。いっぱしに父親をやっている姿を見られるのは何だかこそばゆかった。──ねえ、先生。でも、少年時代のあなたも、ここにいる彼と同じくらい、かわいかったですよ。

 話題もひとめぐりした頃、息子がふいにこんな言葉を投げてきた。

 ──父さんは、なぜ音楽家になろうと思ったの。

 ──僕らにとっては、生まれた時から、半ば決まっているような話だったからね。

 ──「僕ら」?
 ちらりとベートーヴェンを見た。うんうん、と、彼が深くうなずくので、それに勇気づけられるように、僕は話を続けた。──とりわけ僕なんかは、そういう風に、人生の道をあらかじめ決められていた、本当に最後の世代かもしれない。でも、父は……君のおじいちゃんは、僕に、ヴァイオリンではなく、ピアノの道に生きることを許してくれた。君は、僕以上に、自由に決めて構わないんだよ。仕事も、生き方も。

 おやすみを言って、息子が部屋を出て行くと、ベートーヴェンは待ちかねていたように立ち上がり、僕の方にそそくさと近寄ってきた。思い返せば、それは空元気のようなものだったのかもしれない。──先生の思い出話、書き終わりましたよ。……と言ったが、彼は、おざなりに手を振るだけだった。──わかった。それより、まあ聞け。最高にいい話を持ってきてやった。おまえに、やっと、カッセルの宮廷楽長の件のお詫びができるぞ。

 ──何ですそれ? ……と、問い返す暇もなく、彼は鼻歌をうたいながら、まあまあマエストロ、とか何とか言って、僕を長椅子に座らせた。それから、自分は、さっきまで息子が座っていた椅子を引き寄せて座ると、えっへんともったいぶった咳払いをして、話し始めた。


 それは、いい話というより、たいそう笑える話だった。これを聞いたら、さすがの冷静なあなたも、涙をこぼして笑わずにはいられないだろうと思う。それを実に大まじめな調子で、ベートーヴェンが言うんだ。背中からはみ出た、ちっちゃな羽をぴよぴよはためかせて。

 いわく。
 彼の住まう、かの雲の上でも、音楽祭なるものがあるんだってさ。
 それで、僕を、来年度のディレクターとして招聘したいって言うんだ。

 ほら、笑っちゃうだろう。僕も笑ってしまった。名前まであるらしい。ヒンメルライヒフライハイト・ムジークフェストっていうらしいんだ。若干、政治的な匂いを感じる。開催は今回がはじめてだが、すでに演奏者は合唱を含めて五百人あまり集まっていて、メインの演目として、めでたくも(バッハ一族、ヘンデルハイドン兄弟、アルブレヒツベルガー、モーツァルト、フンメルといった音楽史に名だたる強敵を打ち負かした結果)ベートーヴェンの新作オラトリオが内定したらしい。そして、彼としては、是非とも僕に指揮棒をとってほしいという、実にありがたいオファーのようだ。

 ──なんで僕なんですか?天国なんて、さぞや人材豊富でしょう?
 ──それだけの大人数を動かした、現場経験があるやつが他にいない。俺の曲ならなおさらだ。

 なるほど理屈は大いに合っている。天上と地上の人類を全てあわせても、いまのところ、適任は僕くらいしかいないだろう。泥仕事という意味も含めて。

 せっかくだから、僕は色々と質問してやった。ホールの形状はとか、ソリストは誰かとか、合唱はボランティアなのかとか、本番当日に昼食は支給されるのかとかね。何だかもう、ばかみたいだろ?まあ、でも、見知らぬ地の音楽祭だと思えば、ひととおりの興味はあるじゃないか。単純に。それに、天使だってきっと腹くらい減るだろうし。彼の答えは、全体に、ジョークとしてはなかなか不謹慎でふるっていた。特にソリストの話なんて失笑ものだった。なんと、歌を得意とする聖人連中が、それぞれのパートのソロを務めることになっており、ソプラノはなんと聖チェチーリアなんだって。──腰を抜かすなよ。ほんものの聖チェチーリアだぞ?かのローマ帝国の。おまえが騒いでいる、フランクフルトのパチもんの合唱団がなんだってんだ。

 ──実にいいですねえ。

 僕は言った。あくまでも、のらくらと、かわす口調で。

 ──で、本番はいつなんですか。いつぞやのように、五日後なんていわないでしょうね?
 ──準備期間はちゃんと用意する。でも、……本番は決してそう遠くない。わかるだろう?
 含みのある言い方だった。僕ははっとした。いつの間にか彼はうつむき加減になっていて、もじゃもじゃ逆立った髪の毛の下に顔を隠してしまっていた。

 ──どういうことですか。
 
 ──要するに、本番の日は、おまえ次第なんだよ。

 その言葉が、血よりも早く身体をめぐり、自分の心臓がどくどくと早鐘を打ち出したのがわかった。頭だけが空回りしてついていかなかった。

 ──もし断ったら?
 彼は答えなかった。ますますうつむいて、一筋だけ白髪の入った髪が微かに震えて光っていた。どうしたらいいかわからず、僕はただただこの状況を何とかひっくり返そうと、ひたすら言葉を探していた。

 ──先生。僕はついさっき、仕事は自由に決めろと、息子に教えちゃったわけで……

 彼はついに耐えかねたように、椅子を蹴り倒す勢いで、がばりと立ち上がった。こちらにつかつかとやってくると、そのまま崩れるように膝をついて、真正面から、僕の両肩に手を置いた。たぶん、彼の手には、僕の心臓のこわれそうなくらいの鼓動が、はっきりと伝わっていたと思う。だが、それ以上に彼の手は震えていた。揺れる腕を抑えるように、僕の肩を痛いほどに強くつかまえ、歯を食いしばって彼がとった格好は、まるでひとの首を絞めるそれだった。そして、次の言葉が放たれた瞬間、喉笛にあたった親指に力がこもって、息が詰まった。

 

 

 ──リース。わかってくれ。俺はおまえをどうしても連れて行かなきゃならないんだよ。

 


 親愛なるヴェーゲラー。たぶん頭の良いあなたには、もうとっくに呑み込めていたオチだっただろう。でも、僕だって決して、最愛の師の心が読めないほどにはばかじゃない。彼が何のために僕のところへやって来たかなんて、本当は、はじめからうっすらとわかっていたはずなのだ。彼に甘えて、気づかないふりをしていただけだ。たぶん、僕は本来、粉雪の舞うあの寒々しい四月のパリで死ぬ予定だったのだ。そして、迎えに来た彼は、アーヘンに行きたいと言い張る強情な僕を目にして、神の決定事項に逆らってくれた。それからいままで、彼は、僕を何とかその気にさせて連れて行くために、あれやこれやと試行錯誤してくれていたのだ。

 わかっていた。
 それでも、だめだった。呼吸を止め、血を止め、感情を止め、きっと最後に全てを抱きとめる覚悟までもって、僕の喉にギロチンの刃を貫こうとしつつある、彼の残酷で痛ましく優しい手を、僕は、あらん限りの力をもってはねのけた。彼は案外あっさりと吹っ飛んで、床の上に転がった。僕はよろめきながら逃げて、本棚に体当たりすると、その中に並んでいた楽譜を、手当たり次第、立ち上がろうとする彼にぶつけた。作品一、作品九、作品十一、作品二十六、……作品百六十。かつての愛弟子が、おもちゃみたいな天使の羽根をつけたベートーヴェンに、自作のピアノ・ソナタの楽譜を片っ端から投げつけているのだ。傍からみたら、さぞや喜劇みたいな光景だっただろう。彼は、──いたっ、いたっ、何をするっ、ばかやろうっ、連弾ものは厚いからやめろっ、……と、さっきの気迫はどこへ行ったのやら、実に情けない声をあげていた。ソナタをすべて投げ終えてしまって、その横のピアノ協奏曲の楽譜に目をやると、彼は、──殺す気か!と、ひっくりかえった声で叫んだ。この期に及んで、ほんのちょっとだけ面白かった。

 その一方で、僕の心の裡で、何やらひどく感傷的な想いがもたげてきた。僕は僕なりに、自分は、それなりに達観した魂を持っていると思ってこれまで生きてきた。なにぶんこんな人間でも、世間の一般の人間以上のものは見てきたのだ。ナポレオンの銃弾にたおれた死体の山も、轟々と荒れる波にはためく私掠船の帆も、イギリス人の観客の商品を見るようなひややかなまなざしも、ピアノのパッセージがオーケストラを裂いて永遠を突破する瞬間も。たとえ右目はすぐそばの現実の処理に追われていたとしても、左目はどこでもない遠い世界の果てを見つめて、明日にも死んだって構わないなんて思っていたつもりだったけど、それは本当にうわべだけの、ただ自分を愛撫するための方便のようなものに過ぎなかったんだな。もう投げられるものも手元にすっかりなくなって、ぼろぼろ勝手に流れだした涙を止めることもできずに、僕は楽譜の山の中でうずくまる彼にさんざんな言葉を浴びせていた。──僕には若くして人生を捧げてくれた美しい妻がいるんですよ、とか、年頃のふたりの娘たちが巣立っていく姿を見られないんですか、とか、息子にはまだもう少し僕が必要なんです、あなただって父親からの愛に飢えていただろうに、どうしてそれがわからないんですか、……とか。ああ、自分はなんてあたりまえのことを悲しく思う、あたりまえの人間なんだろう、と痛切に思いながら。それに、──それに、僕の場合は、自分の父親だって、まだ生きているのに。

 ベートーヴェンは、そこで、弾かれるように身を起こした。──そうか、そういえばおやじさんが……。──そうですよ、と僕は言う。八十を超えた父親を残して先に逝く羽目になるなんて、思ってもみませんでしたよ。ヴェーゲラーだって……。あの冷静なヴェーゲラーだって、二十歳近くも若い友人である僕が死んでしまったら、あなたを恨むか、自分を責めるかするかもしれませんね。僕の遺作を胸にひしと抱いて。それがせめてレクイエムか何かだったら美しいけど、先生とのしょうもない若き日のどつき合いの記録ですからね。こんなの、漫画にもなりやしないですよ。

 気がつくと、彼の方も、楽譜が濡れるくらいにびしょびしょに泣いていた。彼が謝るような話でもないだろうに、──リース、すまない。……とか、──ヴェーゲラー、俺を許してくれ。……とか、しゃくりあげながら。それを見て、僕もまたぐずぐず泣いた。解決のしようもないことで、大人ふたりで、悪酔いしたみたいに、感情に溺れて大泣きしていて、ばかきわまりないなと心の底から思った。音楽家同士で、下手に秘密を分け合うような真似をすると、たいがい、最後はこういう、犬も喰わない情のなすりあいになっちゃうことは、経験上よくわかっていたはずのに。親愛なるヴェーゲラー。できれば、あなたにこの場にいてほしかった。僕の髪をつかんで、しゃんと立たせて、こんな格好の殺し文句で諭してほしかった。──フェルディナント、君とあろう者が、旅をいやがるなんて、どういう了見だ?……あるいは、こんな風に。──どうか私が来るまでの間、寂しがり屋のルートヴィヒを、よろしく頼むよ、……と。


       ***


 親愛なるヴェーゲラー。僕があなたにしておきたかった話は、これでおおよそ終わりだ。繰り返して言うけれど、これはどんな類の作り話と考えてもらっても構わない。エピソードの結末を知らないと安心できないというならば、念のため、お伝えしておこう。床に散乱した楽譜はちゃんと片付けたし、ベートーヴェンと僕はちゃんとおいおい泣きながら抱き合ったし、おまけに調子に乗って、ラインガウのとっておきのワインを一本あけてしまった。いまはといえば、僕はあなたに、手紙と、それに続くこの長い追伸を書いているし、彼は僕を待ちながら、ヒンメルライヒフライハイト・ムジークフェスト第一回のオラトリオの作曲に励んでいる。さっき彼が聞かせてくれたところによると、僕の場合、音楽祭ディレクターという破格の好待遇で天国に召されるので、死因を選ぶ権利が生じるのだそうだ。シンドラーに殺されるという衝撃のラストもなかなか魅力的だったけど、自制して、ごくごく平凡なやつを選んでおいた。実際にその時が来るのは、年が明けて間もなくになるだろう。

 この場を借りて、遺言めいたことを言うのを許してほしい。できる限り、妻と子供たち、そしてヨーロッパの各地にいる兄弟たちのことを気にかけてやってくれないだろうか。それから父には、僕もベートーヴェンも、あなたのことが大好きだ、と伝えてほしい。いまの僕たちにとって、これ以上の真実はきっとないだろう。


       ***


 最後に。このおかしな追伸をしめくくるにあたって、あなたへの限りない友愛の抱擁と共に、ひとつだけつけ加えたい話がある。カール・チェルニーという人物を、あなたもきっと知っていると思う。若き日に、僕と師弟生活をともにした、同門の音楽家だ。実は、僕は、パリに滞在しているときに彼に会った。インフルエンザに罹るほんの少し前のことだ。

 しかも、それは、ごくごく偶然のすれ違いだった。もう三十年近くも会っていなくて、しかも互いにパリにいることを知らなかったのに、どうして同時に足を止め、同時に振り向くことができたのかわからない。そこはパリでいちばん華やかと評判の最新のパサージュの前で、現代的なガラス張りのアーケードとファッションと広告を背景に、戦友のようなひとりの古い仲間が立っていることが、僕にとってはにわかに信じがたかった。

 実をいうと、僕はここ数年ばかり、チェルニーの作曲家としての動向を、畏怖と疑惑のまなざしで追っていた。ベートーヴェンが亡くなって間もない頃、互いに慰めのようなソナタを献呈しあったこともあったが、いつしか音信は途絶えてしまい、僕はただ異様な勢いで増えていく彼の作品番号を、音楽新聞やカタログを介して、戸惑いの目で見ていることしかできなかった。でも、実際に目にした彼は、外見はもちろんおじさんになっていたけれど、眼鏡の奥にある目は子供の頃そのままのように理知的で、言葉は無駄がなく、風変わりな学者のような雰囲気をたたえていた。

 残念ながら、彼には待ち人があり、立ち話をするような時間しかなかった。粉雪がはらはらと舞う寒々しい空の下、僕たちは、アーケードの中に入ることもせず、その場でぼそぼそと話し込んだ。なぜこれほど久々の再会なのに、くだらない話しかできなかったのだろう。たしか、ロンドンの音楽家の誰それは守銭奴だから信用を置くなとか、よけいなおせっかいを喋っていた最中だったと思う。彼はもともと、めったに目を合わさない人だった。だが、その瞬間は、ちょっと不自然なほどに視線がそれて、僕の肩越しのどこか遠くを、食い入るように見つめていた。僕は彼の視線の先を追って後ろを見やろうとした。すると、突然、彼は僕の肩に触れて、思いがけないくらい強い力で引き戻した。

 ──振り向かないでください。

 はっとした。チェルニーの眼鏡に、光がぎらりと反射するみたいに、アーケードの迷宮のかなたから、こちらを見つめているベートーヴェンの虚像がすべりこむのが見えた。あまりに一瞬だった。だが、僕は確かにそれを目撃した。その虚像は、僕がそのあと再会することになる、どんなベートーヴェンとも違う、血の気も表情も失せた、灰色の死神の形相をしていた。チェルニーは、僕の顔色をうかがうようにちらと見やって、慌てたように眼鏡を外すと、コートのポケットの中に押し込んだ。僕は、彼が非常に勘の冴えた、聡い少年だったことをぼんやりと思い出していた。

 ──あなたは、ベートーヴェンの弟子でよかったと思いますか。

 ほんの少し経ってから、彼は、珍しく僕の目をじっと見つめて、唐突に質問をぶつけてきた。はじめての、そして唯一の、僕自身に対する問いかけだった。──もちろん、と僕は答えた。僕があまりにあっさりと即答したので、彼はちょっとびっくりしたみたいだった。

 ──それなら……きっと大丈夫ですね。

 そう言って、彼はその目に光を漂わせて、ほんの少しだけほほえんだ。何が大丈夫なのか、よくわからなかったが、──君はどうなの?……と訊き返す勇気はなかった。そのとき、彼の肩越しに、ひょろっとした長髪の美青年が、へらへらと笑いながら近づいてくるのが見えた。チェルニーの愛弟子のフランツ・リストだ。なるほど、彼の待ち人はこいつだったのか。

 ──チェルニー君。君のお迎えが来たみたいだよ。

 親愛なるヴェーゲラー。僕はあのとき彼に訊き返さなくて本当によかったと思う。いまどきのイケメンと学者風のおじさんという、妙に不釣り合いで愉快な彼ら師弟コンビに手を振って、僕はひとり、雪の舞う道を、彼らと反対の方向へ歩き出した。パリがこんなに凍えるように寒いとは知らなかった。呼吸をするたび、白い息が目の前を覆って、自分がいま生きていることを、なぜだかとても幸運なことのように感じた。どうか、早く春が来ますように。そして、あのアーヘンの大舞台に立てますように。そんな想いを、まるで悲願のように、強く心に抱きしめながら。

 

【End】

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