かげむし堂

音楽と、音楽家と、音楽をめぐる物語について。

Die Sonate(短編小説)

1829年11月26-27日頃、コブレンツ。ヴェーゲラーの一人称短編小説。チェルニーとリースが互いに献呈しあったソナタ、そしてリースの娘の死をめぐって。

登場人物:フランツ・ゲルハルト・ヴェーゲラー/フェルディナント・リース/カール・チェルニー

登場曲:ピアノ・ソナタ Op.143(チェルニー)/4手のためのピアノ・ソナタ Op.160(リース)

f:id:kage_mushi:20160702190940j:plain

 

 晩秋らしからぬ激しい雷雨がラインラントを浸し、それがようやく少し和らいだ頃、フェルディナントが私たちの宅に姿を現した。ずぶ濡れだった。妻が布やら着替えやらを慌てて持ってきたが、彼は自分のいでたちなど構いもしない様子で、外套の下に抱え込んだ薄い書類鞄をあけて、中身をのぞくと、よかった無事だ、と云って笑った。ピアノ曲らしき印刷譜がちらと見えた。

 馬車の中から眺めた稲妻のひらめきがどれほど鮮烈だったか、ぬかるみに車輪をとられてどれほど車体が揺れたか、という話を、白髪交じりの髪を拭きながら、彼は私たちに語ってきかせた。大変だったわね、と妻が同情すると、大変だった、でもちょっと面白かったよ、と彼は鼻歌のように答える。妻はそんな彼の様子を眺めて、何かほっとしたような微笑を浮かべていた。私は雨垂れが滝のように落ちる軒先に目をやった。天気の急変。それが思いがけなくも彼の血の流れを動かしてしまった。だが空模様はまたすぐに変わってしまう。だから私は妻ほどには安堵できない。

「ああそうだ。父がこれを」
 どこにどう仕舞っていたのか、脱いだ服の重なりの中から、折りたたんだ封書が現れ、差し出される。旅慣れた彼の荷物は、いつも驚くほど少ない。
「今日は寄るつもりはなかったんだけど、これを届けろとうるさくて」
 私たち夫婦が長らく住まうこのコブレンツは、フランクフルトとボン──つまり彼の宅と実家のちょうど間にある。しばしば彼は、老父を訪ねるついでに私の宅へ顔を見せてくれる。
 彼の他愛もないお喋りに応じながら、受け取った封書を開けて一瞥する。文面より先に、切迫した気配が目の前に押し寄せた。フランツ・アントン・リース。あの穏やかな老人らしくもない、乱れた走り書きである。親というのは実に大したものだ、と思う。だが、彼が万能ではないのと同じく、私もまた万能ではない。父の憂いを、私は友の、また医師の憂いに代えて、受け止める。

 私の新しい鉱物コレクションをだしに妻と笑い合っている彼に、私は呼びかけた。
「今夜は泊まっていくだろう」
「いや、帰らないと。……妻のことも心配だし」
「朝まで居たらどうだ。天気だってまた変わるかもしれないし」
「そうそう、うちのピアノを診てくれるって、この前、約束したじゃない」妻が助け舟を出す。「Eの音がすっかり鳴らなくなっちゃったのよ」
「ブロードウッド社にクレームを入れておくよ。ヨーゼフとかいう名前の担当者に」
「先生。たまには女弟子のわがままを聞いて頂戴」
 もう大昔だが、妻は彼からピアノを習っていたことがある。レッスンのとき、若い彼があまりにしじゅう上の空なので、妻はよくそれをからかっていたものだ。先生、あなた、自分が弾くことにしか興味がないのね、と云って。彼もまたそのことを思い出したのか、すでに暗くなりかけた窓の外を眺めやって、それじゃ罪滅ぼしに、と云って破顔した。


 *


 むろん壊れたピアノのことなんてどうでもよかったわけだが、三人で夕食を共にし、さらに私と彼でワインを呑み交わしたあと、彼は、E鍵か、……と云うなりふわっと立ち上がって、居間のピアノのところに向かった。それなりに酔っ払っているような雰囲気だったのに、鍵盤に指をかけるとたちまち真顔になった。
「……なんか引っ掛かってるね」
「そうなんだ。ここ二ヶ月で、かつてないほどにひどくなって」私は答える。こんな話は別にどうでもいい、と思いながら。今日の日付でカルテに記すべきは、ピアノの病状なぞではないのだ。
「ちょっと蓋あけるよ」
 彼は這いつくばるようにしてピアノのハンマーをいじりだした。イギリス・アクションはエスケープメントの場所が違うからそのぶんどうのこうの、とか云いながら。今夜は、彼の口からすでに色々な話を聞かされた。彼はいつもより多弁なくらいだった。昨日デュッセルドルフで打ち合わせをしてきたという、来年のニーダーライン音楽祭の話。「盗賊の花嫁」のピアノ編曲譜の話。もうすぐフランクフルトにやってくるという噂のパガニーニの話。そしてまた、先ほどの雷雨の話。私はその合間に色々と口を挟んだ。眠れているかとか、食欲はあるかとか、体調を崩していないかとか。彼はそれをすべて妻と子供を主語にして答えて、すりぬけるように話題をあさっての方へと変えてしまう。まるで彼の作品にしばしばみられる、あの無重力な転調のように。私は微かな焦燥をおぼえていた。彼の父親が手紙に書いてきたことと、目の前にいる彼との落差に。

「……のお父さんはピアノ修理がうまかったなあ」

 はっとした。彼は片目を細めて焦点を合わせようと苦心している。光が足りない、と云うので、ピアノの反対側に回って、手元を灯りで照らしてやった。何か大事なことを聞き逃した気がしたが、また話が逸れていくのを恐れて黙っていた。彼はそのまま五分ほど外科医のような手つきでダンパーの周辺を抉っていたが、やがて身を起こしてこう云った。
「あなたの奥様の云うとおりだ。僕はどうも弾くしか能がなくて」
「直らないなら大丈夫だよ。フェルディナント」
ベートーヴェン先生に怒られてしまうよ」
 彼は鍵盤をゆっくりと押さえた。問題のEと、その周辺の音を。E-Fis-G-Dis-E。
「おや、ずいぶん良くなってる気がするがね」
「打鍵はスムーズになった。けど、まだちょっとひしゃげた音がする」
 そうは聞こえなかったが、プロが云うならそれが正しいのだろう。彼の指は下におりる。E-A、そして上がってF。そこでためらうように指が止まった。そしてそのままじっと耳を澄ませていた。不協を成した音は時間をかけてだんだんと消えていく。夜も更けた部屋はしんと静まり返り、私の手の中の灯りだけが頼りなく揺れていた。だいぶ長い時間が経ってから、彼はぽつりと云った。
ソナタを書かなきゃならないんだ」
「いまのは楽想かい?」
「よくわからない」
 それから彼はまたしばらく黙っていた。片目にピアノの鍵盤を、そして片目に何ものかの虚ろな影を映したまま。それからゆっくりとその口を開いた。私はおぼろげな予感に衝かれ、灯りをピアノの上に置いた。もし……もし次の瞬間、何かが起きたときに、せめてこの老いた両手を空けておくために。

 果たしてその時はやってきた。謎めいた言葉が、唯一の手がかりのように私の腕の中に落ちた。


「"彼女"は、もう死んでいるのに」


 *


 その夜、私は一睡もできぬまま、書斎で古医学書を漫然と読んでいた。自分の無力さをひたすらにかみしめながら。ただの老いぼれた友人であれば、私は、精一杯に親身になったことで、多少なりとも満足を覚えたかもしれない。乾かし忘れた雨の雫のように、やっとのことで片目から流れ出たひとすじの涙を、いたわり、気づかい、友愛の言葉を尽くし、震えた肩を支え、大丈夫だと云ってやり。だが、私は医者だ。ゆえに、ひとよりほんの少しよく知っている。あんな少しばかりの涙を絞り出したところで、明日、天気が変わってしまえばもう何の役にも立たないということを。

 古代ギリシア人はこう云った。元来、人間の気質は四つの種類の体液でもって決定され、そのバランスを崩すと心身の健康を損ねることになる、と。今日の病理学の基礎ともいえる仮説であるが、それに擬えるならば、彼は二ヶ月前に幼い末娘を喪った悲しみから、一時的にいわゆる黒胆汁の気質に支配されているだけなのだろうか。回復のためには、その過剰な気質を抑制させればよいのだろうか。そもそもいつもの彼は、真に四つの調和が取れた状態であるのだろうか。それとも。……何もわかりやしない。私が人生をかけてきた学問は、私が生きているうちには実用に足るものとして陽の目をみることはないだろう。ただ私が漠然と察しているのは、私が出会ってきたライン河畔の魅惑的なひとびと、とりわけ音楽家たちは、このような空想じみた紙の上の話ではない、もっと確固たる実体験として、はるかに輝かしく鮮烈な地平を生き、それを自身の使命として昇華させているということだけだ。たとえばベートーヴェン。そして、ふたりのリース。


 *


 フロイデすぎて寝れやしないよ、ヴェーゲラー。フェルディナントは春になるとまぶしげに云う。ニーダーライン音楽祭は五月から六月のペンテコステの頃に、数日をかけて開催される。彼はいつも、四月のうちには現地に赴き、春から初夏へ向かう季節を、壮大なオラトリオと、それを織りなす数百名あまりの地元の演奏家たちとともに過ごす。あれだけ多くの人々と、もっとも世界が生の欲望に騒ぐあの美しい季節を、自分の右手の先で震える指揮棒ひとつで掌握するとはどのような心持ちがするのだろう。私などには理解の及ぶ話ではない。ただ私は、ひどく風情を欠いた医者のふりをして、眠れないならこれを飲めと云って、鎮静効果のある薬包を渡してやるだけだ。ヴェーゲラーは真面目だなあ。彼は目をまるくしてそう云う。どうせ飲みもしないことは知っているが、これもまた友愛であるということも当然わかってくれているだろう。私のような人間もまた、文明を飛翔させるための片翼なのだ。


 *


 今日はよく眠れそうだ。彼はそう云って客用の寝室に消えていった。どうにも眠る気になれないのは私の方だ。私は私で黒胆汁とやらの厄介な体液に支配されてしまっているのかもしれない。あの輝かしい五月はまだずっと遠い。彼は果たして来年それを無事に連れてくることができるのだろうか。そしてそのために彼はいったいどれほどのものを使い果たすのだろう。いまはただ、荒天の後の重苦しい湿気と沈黙だけがラインラントを覆っている。


 "彼女"は、もう死んでいるのに。


 胸がざわめいて私は椅子から立ち上がった。何かを、得体のしれぬ何かを、つかみかけた気がした。同時にひどく悪い予感が喉を衝いた。本を投げ捨て、灯りを携えて、客間の寝室へ向かう。扉の向こうからは何の気配も感じ取れない。ああ、フェルディナントはもうここにいない。私は何故だかそう思った。旅行鞄もろくにもたずに、フランクフルトでもボンでもケルンでもデュッセルドルフでもアーヘンでもない、私の知らないどこか彼方に行ってしまった。激しい動悸が胸を打った。ほとんど体当りするかのように、私はその扉を押し開けた。

 私の予感はただの杞憂に過ぎなかった。彼は月のない暗がりのなか、何事もなく、ベッドの上で深く眠っていた。息をしているのかと思わず疑うほどの沈黙のなかで、私はゆっくりと歩み寄り、その額に指を落として、熱くも冷たくもないことだけを確かめて、すぐに離した。辺りを照らすと、ベッドの脇の小さな丸テーブルがいびつな影を落とした。手をつけた形跡のない水差しとコップ。そして一冊の印刷譜が、まるで読書の途中のように、開いたまま置かれているのに気がついた。はっとして灯りを近づける。さっき彼が鍵盤の上でなぞった音。E-Fis-G-Dis-E。二手のピアノソナタだ。私は表紙を繰った。献辞に彼の名がある。そして、その作曲者は。…………


 そうか。君には、君をそんな風に眠らせてくれる存在があるのか。


 その人物が高名なピアノ教師であること、そして、その人物とフェルディナントが亡きベートーヴェンの弟子どうしであったということ。私自身はそれくらいしか知識を持たぬ、ウィーンの音楽家の名の刷られた"ソナタ"の表紙を、私はしばらく見つめた。知らなかった。何も知らなかった。あの雷鳴の轟く中で、捕まえきれぬ気分を雨風に泳がせながら、君がこんなものをしっかりと外套の内に抱きしめていたなんて。


 おやすみ。
 フェルディナント。


 死のような沈黙のなかに佇み、それでも私はそうつぶやく。彼を子どもの頃から観察してきた医師として。また、彼に深く友愛を寄せる年上の友人として。そして、何より、無力で残酷な自分自身のために。なぜなら私もまた、音楽なくしては生きてはゆけぬ一人間であり、この晩秋の濡れた寒空の下では、彼がもたらすあの歓喜の春を待つよりほかに、成すすべをもたないからだ。


[End]

 

(※補足:「リースという人物の精神性を、精神病院の創設にも携わった友人ヴェーゲラーはどのように見ていたのだろう?」という疑問から出発したシミュレーション小説です)

広告を非表示にする
<