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かげむし堂

音楽と、音楽家と、音楽をめぐる物語について。

ベートーヴェン家の父 (短編小説)

1792年、ボン。酔いどれベートーヴェンパパの一人称短編小説。

登場人物:ベートーヴェン家の人々(父ヨハン、ルートヴィヒ、弟カスパルとヨハン)/リース家の人々(父フランツ・アントン/フェルディナント)

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全てのひとは兄弟になる、あなたの柔らかな翼が憩うところで。

──フリードリヒ・シラー「歓喜に寄す」 1785年

不幸にもお前の父なる、または幸いにもお前の父ならざる者より。
──ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン、甥カールへの手紙 1825年

     * 

 つまりは、クリスティアン・ゴットロープ・ネーフェのところに弟子入りさせたのが間違いだったのだ。確かに、息子のクラヴィーアの腕は大いに磨かれた。雑誌に提灯記事を書いてもらったおかげで、「天才」だの「第二のモーツァルト」だのという称号は、俺の妄想ではなく、公然の事実となった。ぶじに宮廷での仕事も得るに至った。しかし、その代償ときたら、どうだ。きょうも息子は出かけていく。扉の前に投げたままの空の酒瓶を、遠慮なく爪先で押しやって。

「仕事か」
 声を掛けねば、俺の方なぞ見向きもしない。飲みかけの酒瓶に囲まれて、テーブルに突っ伏した俺のことなぞ。
「いや。ネーフェ先生のところ」
「おまえ、まだレッスンを受けているのか?」
「違うけど、……」
「わかった。一緒にコッホの店に行く気だな」
 息子は眉間に皺を寄せた。扉の取っ手に指をかけたまま。
「読書協会のことを言っているなら、それは違うよ。あそこは、学生は参加できない規約があるし」
「学生だと?」
 思わず、椅子から腰を浮かせた。たちまち視界がゆがんで、また座り込む。さすがにこの一晩は飲み過ぎた。
「おまえは学生じゃないだろう?」
「僕は、ボン大学の聴講生だ」
「何だと?そんな話、初耳だぞ」
「話す機会がなかったんだ」
「そんな勝手は許さんぞ」
「聴講生になったのは、もう二年も前だよ。帰ったら、話す。夕方には戻るから」

 追いかけようとしたが、足が回らない。後ろ姿はあっという間に扉の向こうに消えていく。立ちくらみを起こして、空転した視界の端に、壁に掛かった一幅の画が映った。

 親父の肖像画だ。──ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン。息子と同じ名の男の半身。

 畜生。

 外してしまえ、と、何度も何度も命じたはずだ。だが、死んだ女房は、頑として応じてくれなかった。お義父様はすばらしいお方です、と言って。だから、恰幅のいい宮廷楽長は、今日も、ぎょろりとした眼で、俺のことを見つめ続けている。まばたきさえもせずに。

     *

 帰宅になんか気づきようがない。夕方なぞ、まだ寝こけている最中だ。だから、ルートヴィヒはいつも、話は帰ってからだと言い捨てて出ていくのだ。
 目覚めるのは、すっかり夜も更けた頃だ。昔は、こんな時間に、寝ている彼を叩き起こして、クラヴィーアを無理やり弾かせたものだ。いまは到底、そんな真似はできやしない。あのやけに鋭い眼で睨みつけられるのが落ちだ。親父とよく似たあの眼で。
 そうなると、することなんかありはしない。だから、夜通し飲む。鶏が三回鳴くまで。そうして陰鬱な朝が再びやってくる。テーブルに頭を載せてうとうとしていると、箪笥を開ける音が聞こえる。今日は身支度に時間がかかっている。現れた息子は、案の定、宮廷楽団の正装に身を包んでいた。

「仕事だな」
「うん」
「……ご立派なこったな」
 夏は暑いんだよな、その服。……そう口走って、気まずさと恥じらいのあまり、顔をそむけた。みじめな記憶がよみがえる。おまえがこれを着るのは本日限りだ、と通告されたあの遠い日の記憶が。
 だが。次の瞬間、思いがけない言葉が彼の口から飛び出した。
「父さん。……僕は、父さんのテノールをまた聞きたい」
 ぎくりとして、反射的に、息子の方に首を向ける。ぎらりとした視線に刺されて、眼の奥に痛みが走る。
「何を言いやがる、ばかな、そんな」
 あまりの不意打ちに、言葉が出ない。息子はつかつかと歩み寄り、テーブルの椅子をひとつ引き寄せ、座った。
「父さん。話をしよう」
「何を言ってるんだ」しどろもどろに俺は言った。「仕事だろ」
「大事な話をしたいんだ。遅れたっていい」
「早く行け。帰ってからにしよう」
「起きていてくれる?」
 鼻がくっつくほどに顔を寄せられて、俺は正体を失った。
「わからん。とにかく、行け、行け。いまは、おまえの話なんか耳に入らん」

 足音がヴェンツェルガッセの彼方に消えていったあとも、しばらく、動悸がおさまらなかった。酒瓶の滴を舐めようとしたが、胃が受けつけない。

 心のやり場を失って、二番目の息子を呼びつけた。

カスパル、あの肖像画を外せ」
「だめだよ」
「なぜだ」
「兄さんが、その画、大好きだからさ」

 俺より兄に従うのか、おまえは。
 かっとなる。胸ぐらをつかんでやりたくなったが、やめた。ひとたび俺が何かしでかしたら、色々な人間がすっ飛んでくることは知っている。警察だけじゃない。この小さな町で幅を利かせている、あのお利口な多勢の連中どもだ。
 俺に許されているのは、ただ飲むことだけだ。おとなしく家のなかで酔っ払っていれば、何も言われない。そうしている分には、ボンの町は酒税で潤うし、そのままくたばったとしても、それはそれで構わんというわけだ。


 カスパルを追い払って、三番目の息子を呼びつけた。

「ヨハン、あの肖像画を外せ」
「だめだよ」
「なぜだ」
「僕じゃ、手が届かないし」

 その呑気な答えにほっとする。彼はまだ十代も半ばの小僧っ子である。同じ名前のよしみか、こいつだけは、なぜか俺を嫌っていない。ためらわずに、そばにやってきた。ひからびた丸パンを転がしてやると、先ほどルートヴィヒが腰掛けた椅子に座って、口に放り込んだ。

「ヨハン。おまえは音楽の才能がまるで無いな」
「うん」
 パンを噛みながら、にやにやと笑っている。誰に似たのか、やたらと大きな口の少年だ。先祖にこういう顔がいたのかもしれない。はるか何百年も前、メヘレンの彼方のビート農家に。
「幸せ者め。俺もおまえみたいに、音楽のできる兄貴がいれば、跡継ぎの音楽家なんざにならずに済んだろうにな」咳払いをする。「して、おまえは将来、何になる気だ」
「僕は、薬剤師になりたい」
 即答だ。たいそう驚いた。ベートーヴェン家にはまるで縁もゆかりもない職業だ。すっかり酔いのさめた顔をしたせいだろう。ヨハンはまた、大口を弓なりにしてにやにや笑った。
「おまえ、どこでそんな知恵を入れた?」
「おじさんたちが言ってたんだ。これからは戦争に関係した仕事が儲かるって。軍人だけじゃなくて、医療とか、兵器とか、印刷とかさ」
「おじさんたちって誰だ?」
「いつも、兄さんと一緒にいる人たち」
 こらえきれずに、俺は、かじりかけのパンをテーブルの上に吐き出した。

     *

「ヨハン・ヴァン・ベートーヴェン様。
明日の十二時、コッホの店でお待ちしております。
──フランツ・アントン・リース」

 叩き起こされた不機嫌も忘れて、どういうことだ、と声を漏らす。だが、ルートヴィヒは、何も答えようとしない。唇を頑固に結んで、部屋に引き上げていく。俺の手に、その一通の短信を残したまま。
 橙色の夕陽をまとって、几帳面な筆跡がゆらゆら揺れている。

 フランツ・アントン・リース。俺より十五歳下の宮廷ヴァイオリニストだ。息子たちの会話から漏れ聞いたところによると、死んだライハの後を継いで、宮廷オーケストラの監督役に昇格したらしい。
 才能も人望も持ち合わせた男だ。驚くにはあたらない出世である。おそらく、いまはそれなりの人事権も持っているだろう。

「僕は、父さんのテノールをまた聞きたい」

 今朝の台詞が脳裏によみがえる。まさか、と思う。俺は、とうに老人だ。宮廷をクビになったあの当時の年齢ですらない。
 だが、一切の可能性がないわけではない。
 もし、ルートヴィヒが、リースに話を持ちかけてくれたのだとしたら。たまたま歌手の欠員があったとしたら。俺が辛うじていちばんマシだった頃の喉を、まだ、覚えていてくれたとしたら。

 にわかに心臓が脈を打ち始めた。すぐにでも歌ってくれと言われたら、一体、どうしたらいいのか。ライン川のほとりで、発声練習でもしておこうか。いや、だめだ。うっかり、それを誰かに聴かれでもしたら。ヨハン・ヴァン・ベートーヴェンが発狂したとでも思われるだろう。ぶっつけ本番だ。もし、明日の十二時、本当にそんな奇跡が起きでもしたら。

     *

 悶々としたまま朝が来た。眠気なぞ微塵もない。箪笥を開けて、手持ちの一張羅を引っ張りだした。かつらはすっかり、埃まみれになっている。糸くずを何度も指でつまんで捨てて、なでつけた。
 クラヴァットを探していたら、畳まれた宮廷の制服が出てきて、息が止まった。これをまた、着ることになるのか。顔に血の気がのぼった。さすがに、そんな皮算用は馬鹿げている。

 十二時と少し前。息子たちはみな出かけたのか、家のなかに姿は見当たらない。親父の肖像画だけが、こちらを睨みつけている。だが、珍しく、唾を吐こうという気は起きなかった。おもてへ出ると、夏の陽射しが照りつけ、頬を打たれたようによろめく。真っ昼間に外へ出るなぞ、何年ぶりになるだろう。

 広場にはまだ市が立ち、野菜籠を抱えた女達でひしめいていた。コッホの店は、住まいのヴェンツェルガッセの反対側だ。賑わいのなかを横切ると、きらめく大海を悠々と渡っているような気がした。左手には、選帝侯の宮殿がちらと見える。もういちど、あそこに足を踏み入れるときが来るのやもしれない。そんな想像をすると胸が高鳴った。どうしてだろう。
 俺は、ずっと、宮廷を憎み続けていたはずなのに。

     *

 コッホの店に入るのは、むろん、はじめてのことだ。宮廷での勤め帰りに、ネーフェやらジムロックやらリースやらが、連れ立ってここへ入っていくのを横目で眺めながら、俺は独りで酒場横丁に折れていくのが常だった。
 内装は何の変哲もないカフェといったところだ。だが、通された奥の間に、彼らの秘密が隠されていた。背の高い本棚がはりめぐらされた、ちょっとした個室風の一角である。長テーブルの中央に、フランツ・アントン・リースが座っていた。
 傍らには、小さなクラヴィーアが一台あり、少年がモーツァルトらしきものを弾いている。六、七歳くらいだろうか。
「うちの長男坊。フェルディナントです」
 指を動かしながら、首だけをひょいとこちらに向けた。「こんにちは」
「眉毛がおたくの奥さんとそっくりだ」
 真向かいの椅子に掛けながら言うと、彼はひとしきり笑ったあと、ふっと真顔になった。
ベートーヴェンさんは、奥様が亡くなられて、お寂しいでしょう」
「どうかな……」
 コーヒーが運ばれてくる。苦手な飲み物だ。だが、慣れねばならぬ、と思い、口に運んだ。
「私も、もし妻に先立たれたら、だいぶ塞ぎこむでしょうね」
 俺はあいまいにうなずいた。よもや、そういうことだと思われているのか。俺の酒呑みが、この数年でとみに悪化した原因は。まっとうな人間の考えることは、しばしば、想像を絶する。
「私はかつて、あなたのお父様に昇給の後押しをしていただきました。私の姉も同じです。ベートーヴェン家とリース家は、宮廷音楽一家どうし、先祖代々、助けあってまいりました。そう思いませんか?」
 うまく相槌を打てたかはわからない。胸の鼓動が相手に聞こえてしまいそうで、思わず、目を伏せる。クラヴィーアの音がぎこちない沈黙を埋めた。

「実は。ルートヴィヒ君が、宮廷の職を辞すことを希望しています」

 コーヒーに波紋が広がる。つま先をテーブルの脚にぶつけたせいだ。顔を上げると、リースは、俺のことをじっと眺めていた。あたかも、反応を観察するように。
「なんだって?…なんだって?あいつ、」
 知らず知らずのうち、立ち上がろうとしていたらしい。彼はテーブル越しに、俺の腕をつかまえて、肩を優しく叩いた。
「そうじゃない、そうじゃない。落ち着いて。お座りください。とてもいいお話なんです。ご説明しましょう」
 いいお話。そんな風に振られる話が、俺にとっていいお話であった試しなんか一度もない。
 俺が力なく腰を落としたのを見て、リースは再び話し始めた。
「ご存知の通り、ハイドンが、先週、ボンに来訪しました。そのとき、ルートヴィヒ君は彼の前で演奏し、実力を認められて、なんと弟子になる許可を得たのです。彼は、再びウィーンに行き、ハイドンのもとで指導を受けたいと言っています」
 呆然とした。そもそも、ハイドンが来ていたことすら知らない。何ひとつ、理解できない。
「おかしい」
 ただただ、つぶやくことしかできなかった。出さないように注意していた酒焼けの声で。
「あれはもう、いい年齢だし、すでに働いているじゃないか。これ以上、何を学ぶ必要がある」
「人生は学びの連続ですよ。こと音楽においては」
 あくまでも落ち着き払って、リースは答えた。
「ともかくも、もっとも懸念すべきは、経済的な問題でしょう。しかし、これは、お陰さまで解決しそうです。私が選帝侯に掛け合いましたところ、旅費の工面と、当面の年金の支給を約束してくださいました。ですので、ルートヴィヒ君は余裕を持ってウィーンに旅立てますし、ベートーヴェンさんも、カスパル君もヨハン君も、今後のボンでの生活をご心配いただかなくても大丈夫です。どうぞご安心くださいますようにと、今日は、お伝えしたかったのです」
 コーヒーの波紋が静まらない。俺の膝がテーブルの下で震え続けているせいだ。
「……そんな勝手は許さんぞ」
 やっと声を絞り出す。どう受け止めたのやら、なぜか、リースは穏やかな微笑みを浮かべた。
ベートーヴェンさん。我々も、寂しいですよ。しかし、」
「我々?何ですか、我々とは。あれは俺の息子だ」
「彼は我々の兄弟です」
 唖然として俺は彼の顔を見返した。
「兄弟? 何だ、そりゃ。あんたとかネーフェがつるんでる、あの宮廷の仲良しグループのことか?」
「……そうともいえますが、ちょっと違いますね」
「じゃあ、何だというんだ」

「我々の絆は不滅です。しかし、宮廷は、まもなく滅ぶでしょうからね」

 ぐらりと視界が揺れた。
 フランツ・アントン・リースの背後にそびえる本、本、本の山。ルソー、ヴォルテール、カント、ゲーテ、シラー。そんな名前が、洪水のように押し寄せる。いまだかつて一行たりとも読んだ覚えのない本の数々が。

「ご存知の通り、フランスで革命が起きました。やがて戦争が訪れ、選帝侯は力を失い、このラインラントの一帯は荒廃するでしょう。いまや、そこまで我々は予測しています」
 その眼が、徐々にらんらんとした輝きを帯び始めた。
「そうなれば、我々には、才能ある兄弟に使命を託し、翼をもたせて世界に送り出す義務が生じます。その筆頭こそが、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン君なのです。むろん、いずれはこのフェルディナントも……」


 もう聞いていられなかった。革命? 戦争? 使命? 世界? いったい、何の話だ。いつの間に、この世はそんな風に変貌してしまったのか。何が「ご存知の通り」だ。
 このちっぽけな箱庭の町さえも恐ろしく、飲んで飲んで飲みまくって持ちこたえている俺が。
 何を知っているというのか。
 何を分かれというのか。この男は。

 俺には何も分からない。だが。


「おい、もしも本当に宮廷が滅びるとしたら」
 吐き気とともに腹の奥から湧き上がってきたのは、途方もないおかしみだった。喉仏がひくひくと上下し、嗚咽のような笑いがこみあげた。
「俺としては、ざまあみろってところだな。ただ、それだけだよ」
ベートーヴェンさん」

 引きとめようとした彼の腕を振り払って、俺は叫んだ。
 彼に、そして、びっくりした顔でこちらを見ている小さな少年フェルディナントに。

「おまえらみんな、ざまあみろだ……!」

     *

 どうやって家に帰り着いたかは覚えていない。転がった空き瓶に蹴つまずいて、そのまま倒れ伏した。発作のように喉元を暴れまわる感情を抑えきれず、床に転がって爆笑した。かつらを投げ捨てて、仰向けになると、親父の肖像画が反転して頭上にちらつく。げらげら笑いながら、こめかみを撃つように、人差し指を突きつけてやる。

「ざまあみろだ、……やい、宮廷楽長!」
 声の限りに叫びかけた。
「滅びるとさ。ざまあみろ!宮廷なんざ、あんたの守った人生なんざ、全部なくなっちまうってさ!おいクソ親父、聞こえてるか?なくなっちまうってさ!ざまあみろ!ざまあみやがれ………このクソ親父!………クソ親、……」

 愉快なはずなのに、顔じゅうからわけのわからぬ水滴が噴き上がって止まらない。汗とも涎とも鼻水とも涙ともつかぬものが。


「…父さん……」


 聞き慣れた声が二重唱のようにかさなって、俺は自分がはじめてそんな言葉を漏らしていることに気がついた。俺よりもう少し低い、バリトンの声。

「ルートヴィヒ」

 身を起こすと、開いた扉の前にたたずむルートヴィヒの姿があった。午後の陽射しが酒瓶に反射して部屋を白く染め、表情までは伺うことができない。だが、その声は、明らかに強い戸惑いの色を帯びていた。

「父さん」

 弾かれるように、俺は、這いつくばって、彼の足に擦り寄った。
「ルートヴィヒ。なあ、教えてやろう」
 左手で、よじのぼるように、その震える膝をつかむ。そして、右手を、再びあの肖像のこめかみに指し向けた。
「あの爺さんはな、立派な男だったさ。才能のある、品行方正な、卑しいことが大嫌いな男だった。けどな、俺はあんな男の息子でいるのが反吐が出るほどいやだった。わかるか。ルートヴィヒ」  
 彼の右手を、命綱のように強く握りしめる。
「おふくろは酒飲みだった。あいつはそれを深く恥じた。人目を恐れて、最後はおふくろをケルンの施設にぶちこんで、見舞いにも行ってやらなかった。息子の俺は音楽の才能がなかった。あいつはそれを深く恥じた。音痴の俺を、無理やり矯正して、宮廷歌手の職にねじこんだ。自分の人事権を使ってな。やがて俺が結婚相手を見つけると、彼女を味方につけて、夫よりも舅の自分を慕うように仕向けた。ルートヴィヒ。おまえだって、彼女からさんざん聞かされてきただろう。『おじいちゃんのように立派になりなさい。お父さんみたいになっちゃ駄目よ』と」

 俺の声はテノールだ。父親ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンに鍛えられたテノールだ。そんなことをあらためて思い出す。いまやその声を耳にしている聴衆はただひとり。息子のルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンだ。

「行っちまえ、ルートヴィヒ。ウィーンでも、どこにでも飛んで行け。確かにおまえの翼は俺が作ったものじゃない。おまえを愛している町の連中が作ったものだ。俺なんか、父なんか捨てちまえ。あいつらの兄弟とやらになればいい。それでいい、それでいいんだと思う。……ルートヴィヒ」

「父さん」
 
 ルートヴィヒはつぶやいた。陽がかげり、その顔がいまやはっきりと顕れた。彼は肖像画にちらと視線を遣って、それから、ひざまずいた俺を見た。苦悶のような、諦念のような、長い溜息をつき、もういちど口を開いた。その祖父譲りの両眼に、遠い音楽の都の大聖堂を、宮殿を、劇場の大観衆を、クラヴィーアを、未知なる音符の羅列を、果てしない旅路を、はっきりと映しながら。


「それでも、僕も、いつか息子の父になるでしょう」……と。

 

[End]

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