かげむし堂

音楽と、音楽家と、音楽をめぐる物語について。

「鈴木秀美ベートーヴェンを弾くⅡ」@パルテノン多摩感想~ベートーヴェンは偉大だが、大は小を兼ねるわけではない(2016.10.15)

 

……こうツイートしたときは「会いに来たよ」ってのはむろん冗談でしたが。

「ヤバい…なんか本当に会っちゃったよ……!」って気になったし、も、も、もう、ますます好きになっちゃいました。あわわ。

 

 

マイナー作曲家の作品の演奏会に漂う謎の緊迫感(あるある)

 

www.hidemisuzuki.com

 

チェリスト鈴木秀美さんのベートーヴェン作品演奏企画:第2弾にあたるこちらのコンサート。

なんとフェルディナント・リースの作品が、しかもフォルテピアノ奏者・小倉貴久子さんも交えて演奏されると聞いて、もう実家の掃除手伝い案件なんて光の速さでブッチして多摩センター方面に飛んでいくしかありませんでした。(おかあさんごめんなさい明日行きます)。

 

おしながきは以下の通り。

 

(プレトーク)

ベートーヴェン:魔笛の主題による7つの変奏曲 変ホ長調 WoO.46
フェルディナント・リース:ピアノとチェロのためのグランド・ソナタ イ長調 op.21
(休憩)
ベートーヴェン:チェロ・ソナタ第3番 イ長調 op.69

以下アンコール
ベートーヴェン:ホルン・ソナタ ヘ長調 Op.17(チェロとピアノ編) 第2&3楽章
ポッパー:組曲「森のなかで」-「秋の花」 Op.50-5

 

ベートーヴェンだのモーツァルトだのと違い、マイナー作曲家の作品の演奏会というのは、「下手したら今日こそが一生で一度の生演奏体験かもしれない」というガチ一期一会の緊迫感やら、「うちの子が舞台上でヘマしたらどうしましょう」的な我が子のピアノの発表会かい!という謎の親心やら、いろんなものがミックスされてドキドキが100倍増になるもので、しかも今回の演奏会は嬉し恥ずかしプレトークまであったので、ナビゲートの岩野さんや鈴木さんや小倉さんが「リース」という言葉を発するだけで唇がヒクッと震えたり、もう大丈夫か私というテンションのまま演奏に突入しましたが。

 

最初の「魔笛の主題による7つの変奏曲」が奏でられ始めた瞬間。

……あ、大丈夫。

アーティストさんに私の心をぜんぶ託そう。

と、肩の力がふっと抜けていきました。

 

よく知られている通り、鈴木秀美さんは、エンドピンのないガット弦のチェロで演奏をされる方です。

つまり現代の一般的なチェロのような支えがないので、チェロを両足で挟んで抱っこするような形で弾くわけですが、その見た目も相まってでしょうか。

なんと愛おしげに、快活で、大らかな音楽を奏でるのだろう!

もうあっという間に、とりこになってしまいました。

つい先月、サントリーホールにて、びりびりと音が鳴るほどに張り詰めた空気感のなか、若いチェリストさんによるバッハの「無伴奏チェロ組曲」を聴いたばかりだったので、このやわらかな包容力をいっそうありがたく感じてしまったのかもしれません。

小倉貴久子さんの奏でる、グレーバー1820年製のフォルテピアノも、ペダルを駆使して音の響きの違いを巧みに聴かせてくれて、茶目っ気たっぷり。

そう、そうなのよ……アットホームだけど決して怠けていないこのムード!

サロンってつまりこういうことよ…………!

ベートーヴェンは偉大だが、大は小を兼ねるわけではない

そのサロン的ムードは、もちろん、リースのチェロ・ソナタにも引き継がれていきました。

鈴木さんも小倉さんも、このたび、リースのこの作品を演奏されたのははじめてとのこと。

Op.21のチェロ・ソナタは、リース20代の若書きの作品のひとつです。彼の幼少期のチェロの先生であり、ともにロシアを巡演した演奏旅行の相棒であるベルンハルト・ロンベルクに献呈されています。

リース・ファンとしては、このベートーヴェンとも親交があったという名チェリストとの関係や、きっと演奏旅行中にも奏されたに違いないこの曲の(チェロとピアノ両面での)ヴィルトゥオジティのあり方などに着目してしまうわけですが、鈴木さんは、そうした背景よりも、「楽譜そのもの」により重きを置いて演奏に取り組まれたそうです。

「(練習を)やってみて気づいたのですが、リースの曲は……メロディがどこだかわからない(笑)。同じイ長調ベートーヴェンのチェロ・ソナタ第3番は、チェロが朗々とメロディを奏でる部分が多いわけですが、リースの場合は、ベートーヴェンとはそもそも楽器の扱い方が違う。私たちはベートーヴェンの周辺作曲家の作品を、しばしばベートーヴェンのように弾いてしまう。でもそれではいけない。ちがう人間なのだから。今回はそれをあらためて感じました」

と、プレトークでの鈴木さん。

たしかに。楽器の扱い、ぜんぜん違うなあ。

ベートーヴェンはチェロとピアノを対等に並べて構築しているけど、リースは明らかにピアノ(自分)が主体で、自分目線からチェロを仰ぎ見つつ書いている。

休憩を挟みつつ、この師弟の曲を並べて演奏されると、あらためて、似ているようで全く特性が違うのだなと強く感じさせられました。

リースの作品は悪くいえばピアノ(自分)本位で、バランスに欠け、風まかせな音楽。良くいえば、そこに、旅先のあちこちのサロンを渡り歩くヴィルトゥオーゾとしてのリアリティがある。そして、たぶんそれこそが、ベートーヴェン作品にはない妙なのだ。

鈴木さんがリースの楽譜を通して得た印象と、私がリースの伝記的な側面から抱いた想像が、ぴたっと合ったように思いました。

 

それにしても、リースの作品のもつ快活さや気まぐれさやうつろう転調の愉しさを、愛をこめて伝えてくれる演奏で、それが一ファンとして何よりうれしかったです。

リースやフンメルやチェルニーやモシェレスほか、「初期ロマン派のピアノ系作曲家」の作品って、現代ピアノのソロ演奏者よりも、室内楽の演奏団体の方により好まれているような気がするけれど、たぶんそれって、室内楽の演奏者のほうが、こうしたサロン的な場での演奏を通して、「ベートーヴェンは偉大だが、大は小を兼ねるわけではない」ということに気づくからなんだろうな。

そんなこともあらためて思いました。

ああもう。

個人的に、このOp.21について追求したい課題も新たにいろいろ出てきたわけですが、それはさておき。

今日は、すてきなリースに出会わせてくれて、本当にありがとうございます。

 

(追記)演奏に使われていたフォルテピアノはこちら。

 

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